着る身体、縫う手。

02 May 2025

文:佐久友基

先日、LOEWEのディレクターであった、ジョナサン・アンダーソンの退任が発表されました。個人的にも、アレキサンダー・マックイーンの次か、その次くらいには好きなデザイナーで、特にLOEWEのコレクションは毎シーズン楽しみに見ていました。ビスポークスーツの世界に足を踏み入れて以降、心の底から着たいと思える提案のあった、唯一のモードブランドかもしれません。

皆さんは、LOEWEと聞いて何を思い浮かべますか。皮革を扱う優れた技術を活かし、機能性と美しさを両立させたパズルバッグ。巨大な造花で前身を隠すだけのドレスや、ピクセルアート風の騙し絵パーカーといった、遊び心のあるバイラルヒット。あるいは、職人泣かせな手仕事で生まれる、ビーズやフェザー(時に本物の草)の装飾でしょうか。

まだまだあるはずです。美術家や工芸作家、そしてジブリとのコラボレーション。スーパーハイライズのジーンズ、風船のように膨らむコートやスカート、その革新的なフォルムやプロポーション。まるで布地のように柔らかく表現されたレザーウェア。陶器や金属までも組み込む、奇想天外な素材使い。そして何より、Loewe Craft Prizeの創設。

これらほぼ全てが、アンダーソンのディレクションのもとに生まれたものです。ファッション界のメインプレイヤーではなかった老舗のレザー工房を、彼はたった10年余りで、ファッションデザインの地平を拡げる最も先進的なラボへ変貌させただけでなく、工芸とアートを横断しそれらを接続する象徴的なハブへと育てあげました。

 

おそらく、彼がLOEWEで成し遂げたことは、10年代以降のシーンで最も重要なもので、それは時を経るほどに明らかになってくるでしょう。そして、その作品が単に新奇であったのではなく、普遍的な価値を有していたこともまた、時間が証明するはずです。

では、その普遍性とは何に由来するのか。LOEWEについて言えば、トレンドやスタイルを創出することではなく、被服の限界を押し広げることに注力した結果だと考えています。つまり、「服とは何か?」あるいは「服と身体の関係はどうあるべきか?」という、根源的な問いに発つデザインを志向してきたということです。これはディレクションの後期、特に顕著でした。

 

前者について言えば、フォルムの純粋な追求がその一つで、クリストバル・バレンシアガやアズディン・アライアはこの例にあたります。もう一つは服という概念、その制度自体を批判・解体するようなアプローチで、マルタン・マルジェラがその筆頭です。また後者は三宅一生などの、運動する身体を尊重したデザインがまず想起されるかと思います。

そして、今挙げた要素に複合的に取り組んだのが川久保玲であり、このマトリクスにおいてアンダーソンがどこに位置するかと言えば、まさしくその川久保の系譜にあるでしょう。しかし、それをよりベーシックなワードローブの中で、時にユーモアも交えて提示したという点が、彼の特筆すべき部分だと考えています。

 

その象徴的な例として、2023年秋冬コレクションのジャケットを紹介します。テーラードジャケットの輪郭をデフォルメしたような、既視感と違和感が同居する不穏なフォルム。そして、服におよそ使われない銅という強烈な異物が、いよいよ我々の常識を粉々にします。ウェアラブルなショートパンツやブーツと合わせることで、かえってその奇妙さを強調した点も含め、これぞロエベというべきルックですが、今回は特にこの銅という素材に注目してください。

皆さんは、この”ジャケット”を”服”として受け入れられますか?フォルムだけを見れば、ジャケットの形なのですから、もちろん服でしょう。しかし、その内部構造はテーラードジャケットを始めとする多くの服と全く異なります。身体の構造に合わせパーツを切り分け、縫い合わせているわけではなく、単なる一塊の金属なのです。服に対して通常期待される運動性は全くありません。その点をもって、これを”彫刻”と捉える向きもあるかと思います。バレンシアガの一部のドレスと同様、体を単なる支持体と見做し、身体性を無視しているというわけです。しかし、本当にそうでしょうか。

 

その立場であれば、金属のジャケットをビスポークのジャケットの対極として捉えているはずです。確かに、仮縫いを重ねて身体に丁寧に沿わせたものとは、一見真逆のように思えます。ただ、仕立てのジャケットが完全に身体を解放しているかと言えば、実際はそんなこともないのです。

 

ビスポークを経験された方であれば、特によくご存知かと思います。テーラーは魔法使いではありません。美観と着心地のバランスを、一人一人のお客様のために調整するのみであり、叶う事と叶わない事があります。仮縫いは身体を自由にするというより、どこまでの不自由を許容できるか確認するための作業なのです。

つまり、幾らかは自由ですが、漏れなく幾らかは不自由だということです。これは何もビスポークスーツに限らず、例えばTシャツであっても同じこと。極論、裸よりも運動性の高い被服はあり得ません。その観点で言えば、金属のジャケットと仕立てのジャケットの間にある差は程度の問題であり、服か否かを分ける決定的な要素ではないとも言えます。

 

さらに言えば、両者には捻れた連関さえあります。特にブリティッシュスタイルのスーツに関して、「鎧のような」という表現がよくされますが、これは銅のジャケットにも当てはまりませんか。

 

身体をある程度拘束し、強固な輪郭を持つという点では、共通しているのです。そして両者は程度の差はあれ、身体の不自由について意識させることで、その感覚を研ぎ澄ます装置として、逆説的な身体性を有しています。その意味において、LOEWEの金属ジャケットも確かに”服”であり、身体と服の関係についての大胆な声明であると言えるのです。

LOEWEとビスポークテーラーには、より直接的な繋がりも当然あります。それは、服が持ち得るもう一つの身体性、つまり作り手の身体を記憶する容れ物としての手仕事を、基盤としている点です。

 

テーラーでは多くの場合、お客様が職人と顔を合わせ、物作りの過程を垣間みる濃厚な体験が生じます。一方、LOEWEでは歴史あるアトリエの技術力と、その担い手への敬意をブランディングの核としています。製品それ自体や広告のみならず、LOEWE Craft Prizeのような社会的な取組みを通じ、手仕事の可能性を追求してきました。

 

伝え方の違いはあれど、製品を生みだす”手”の存在について、両者とも否応なく意識させます。モノに作り手の実在が内包されるとき、そこに奥行きや厚みが現れます。それは、受け手の認識の問題かもしれませんが、何れにせよ、ビスポークスーツにもLOEWEの製品にも、同じ重力が宿っていると感じるのです。

少し話が逸れますが、先日浮世絵の展覧会へ行った際のことです。様々なアーティストに原画を依頼し、木版で刷った作品が並んでいたのですが、そこで観た李禹煥のインタビュー映像が印象的でした。

 

「原画と版画は同じものにはなり得ないが、原画を描く時点では想定しなかった魅力が立ち現れることがある。それは刷る者の手を介した結果であり、その者がまだそこにいるかのように感じられる。」というような内容だったのですが、真隣で流れていた横尾忠則のインタビューでも全く同じ言及があったのです。

 

版画をスーツやバッグと単純に並べることは出来ませんが、人の手を介すことで生じる詩情のようなものは確かにあるのです。このインタビューは、私がビスポークスーツやLOEWEの製品に感じている重力、それを説明するのにピッタリだと感じましたので、ご紹介しました。

 

刷り師もバッグ職人もテーラーも、ある作業を繰り返し、それはもう気が遠くなるほど繰り返してきた”手”の持ち主です。そこには言葉では説明できない、経験的な知性が詰まっています。色を刷り込む際の圧力、レザーを象嵌する正確な動き、フラップに丸みを生む微妙な裏地の操作。どれも身体が記憶したものであり、流れた時間の蓄積なのです。

それは一人の人間が有すのみならず、世代を超え受け継がれたものでもあります。そして、LOEWEが世に送った工芸作家たちの作品がそうであるように、手仕事は個人の想像力や自己表現の器にもなり得るのです。身体を通じた記憶や、その経験知を伝承してきた歴史、時には作り手個人の思想までもが、血液として流れている事を感じるとき、私は人の手を介すモノに特別な愛着を覚えます。

 

作り手との、その知恵を継いできた多くの人々との、交感であるからだと思います。そして、我々のスーツを着てくださる皆さまもまた、その歴史の一部であることをぜひ心に留めていてください。お召しになる方がいるからこそ、その技術や文化や精神は、世に生きながらえていくのです。

 

さて、長くなりましたが、今回はアンダーソンの退任にあたって、SHEETSなりの視点からその功績を紹介しつつ、両者が交わる地点を探ってきました。着る人と作る人、それぞれの身体に深く干渉し、また記憶し内包するモノ作り。その点で我々の仕事ともおおいに共鳴していることを、明らかにできたかと思います。

 

現在、東京は原宿にて、『LOEWE Crafted World』という展覧会が催されています。LOEWEを通貫するクラフトへの愛情、そしてその未来への眼差しが凝縮された、素晴らしい内容でした。一つのバッグが完成するまでの工程を、裁断から順に体感できる展示など、興味深いものばかりです。パズルバッグの全パーツが並ぶ光景には、きっと皆さまも驚かれると思います。

 

単に自社製品のプロモーションであるだけでなく、例えばビスポークスーツを含め、凡ゆる職人仕事への理解も助けてくれる、意義深いものだと感じました。5/11までと会期の終わりが迫っていますが、ご都合のつく方はぜひ足を運んでみてください。私も再度観に行きたいと思います。それでは、また次回。