『Visionaries: Interviews with Fashion Designers』②

09 Nov 2024

文:佐久友基

「僕は単なる作り手で、服を着る人たちが自由な発想で着てくれればいい。僕の考えでは、デザインは日常生活に入り込まなければ意味がない。そうじゃなきゃ、ただの飾りものだ。」

三宅一生

 

以前、「納品して自分の手を離れた服の扱われ方には一切こだわりがない」と森田が話していたことが、強く印象に残っています。三宅氏の言葉と通じる潔さを感じますが、私はこの言葉に少なからず驚かされました。

 

自分で縫ってよく分かった事ですが、ビスポークスーツは贅沢ではあるが決して高すぎる事はない、それだけの手間暇がかかった製品だと思います。初めてウエストコートを納品した時には、「倍の値付けじゃなきゃ納得いかない!一生大事に着てほしい!」という気持ちにちょっぴりなりました。(冗談です、半分。)

 

とにもかくにも、人の手が動いているのです。それだけ念も込もるというものなのか、自分の縫ったスーツを製品ではなく作品とみなす向きもあったりします。そうした感情を抱くのも無理はないですし、大半の職人はこうした思いを程度の差はあれ持っているはずだと感じます。

 

そんな中にあって、森田のスタンスは特別だと思ったわけです。これは責任の欠如によるのではありません。仕上げのアイロンを何度も突き返されてきた私が保証します。ただ、その丹精込めた一着がクシャクシャに丸められて持ち帰られたとしても、とやかく言う権利はないと弁えているだけなのです。作り手の領域に厳密であり、それをはみ出すエゴを禁じているように見えます。

文字通り命賭けで仕事をしながらも、人生を仕事だけに預けないからこそ、できる考えだと思います。つまり、自らの手を離れた服は着る人の領域にあり、製品と自分自身の価値もイコールではない、ということです。それ故に、作った服の扱われ方について、あまり神経質にならずにいられるのでしょう。これは、自分の名前を屋号にしなかった理由の一つだと言います。

 

三宅氏のデザインと同様に、SHEETSでも服はあくまで着る人に従するものであり、生活の中で何らかの役割を果たす道具と考えられています。イッセイミヤケが服と肉体との関係において機能する服だとすれば、スーツは着る人と他者との関係、社会性の中で機能する服とでも言いましょうか。両者の外観や設計は似ても似つきませんが、そうした共通点があります。

 

同書には、三宅氏が展覧会を開くにあたって、来場者が自由に服に触れられるように展示したというエピソードが紹介されています。高尚なものとして崇められるより、日常のものとして愛されることを目指す我々の物作りにとって、彼のスタンスはお手本と言えるのかもしれません。

 

皆さまにおかれましては気兼ねなく、SHEETSの服も自由に着て頂ければと思います。ジーンズやTシャツのように、毎日の相棒としてガシガシ使っていただいても、もちろん構いません。(三宅氏はまさしくそれを究極の目標と話していました。)まあ、冒頭に苦労自慢を聞かせた口で、言うことではないのですけれど