ダンディのすゝめ

06 Oct 2024

文:佐久 友基

ファッション言論においては、ある言葉がある対象を表現するのにどの程度正確か、よく検討されていないように感じる例が、しばしば見られます。

 

例えば、ブリティッシュスーツについて、バレンシアガのドレスのように「構築的」という言葉をあてがってしまう。さらには、単に切り込みが入っただけのジーンズを「脱構築的」と言ったりなんかする。デリダを読もうとは言いませんが、言葉に対してもう少し繊細に、そして慎重になるとより良いと、常々思っています。
(自分もこの概念を完全に理解出来ているとは到底思わないので、私は服について話す時にこの言葉を意識的に避けます。)

そして、特にメンズファッションの言説で、最もいい加減に用いられてきた言葉の一つに、「ダンディ」というものがあります。特に日本では顕著で、モテたいミドル男性向けのファッション誌に出てくる「チョイ不良(ワル)オヤジ」(原文ママ)のイメージしかないでしょう。

 

『スペース☆ダンディ』というサントラがイカしたアニメがありましたが、やはりその原義とは関係がない。ダンディ坂野さんもまた、申し訳ないですがダンディズムの学徒とは呼べなさそう。この言葉は極東で随分ひとり歩きをして、その起源について顧みる者のいない場所まで来てしまったのです。

 

「ダンディ」とは簡単に言えば、「自分がこの世で一番イケていると信じきり、”オレがルール”を実現してしまうカリスマ」です。(特に服装術における)突出した個性によって、支配的な価値観を冷笑的に破壊し、自らの社会的地位を押し上げる者、と言えばより正確でしょうか。

 

SHEETSとも縁深いイギリスで19世紀初めに活躍した、ジョージ・ブライアン・ブランメル。その完璧なファッションと不遜な振る舞いで、貴族はおろか王子をも押し退けて社交界のリーダーとなった彼こそが、ダンディズムの始祖です。

彼の装いは現代に続くスーツスタイルのルーツとされますが、ラウンジスーツすら発明されていない時代であり、直接的な影響があるのは形式よりも精神の部分でしょう。「人から振り返られるような装いは失敗である」という彼の言葉こそ、地味で暗い男性服の祖であり、200年後の男子をも縛りつける呪いです。

 

そんなカリスマであるが故に、中産階級が階級闘争のため挙って模倣したこと。そこで敵対したジェントルマン(=支配階級)の理念が今なお根強いこと。そして、ブランメルを含めてダンディと呼ばれた傑物に、ロクでもない末路を辿った者が多いこと。そうした理由もあり、イギリスにおいて「ダンディ」には侮蔑的な意味合いが多分に含まれるようです。「粋」の概念と結びつき、ちょっとした褒め言葉とされる日本とは、かなり違いますね。

フランスに至っては褒め言葉を通り越し、崇拝に近いような形で彼らを受容しました。反俗的であるために破滅をも厭わない「ダンディズムは一個の落日である。さながら傾く太陽のように、壮麗で、熱を欠き、憂愁に満ちている」とまで書いたのは、かのボードレール。祖国で軽薄な着道楽として揶揄されたダンディに、唯美や退廃を見出して礼讃するとは、何ともフランスらしくて面白いです。

 

さて、何故こんな話を急に始めたかと言うと、ある本を紹介したいのです。中野香織さんの『ダンディの系譜』です。説明不要でしょうが、英国文化を専門とする服飾史家として著名な方ですね。学生の時分、いわゆるファッションスタディーズに興味を持ち、色々と読み漁っていたことがあり、訳書も含めて彼女のものも幾つか読みました。

 

ブログのネタを探しに最近よく図書館へ行きます。そこで本書を久々に読んで、ご紹介しようと思った次第です。この手の本にはアカデミックが過ぎて、頭の痛くなるものもありますが、こちらはエッセイのような気楽なスタイルで書かれています。史実を交えながらクスッとしてしまう部分もあり、ダンディたちに生身の人間らしい体温を感じるような、易しい読み口がよいのです。

 

先述のブランメルやボードレールに加えて、オスカー・ワイルドやエドワード8世、チャーチルにジェームズ・ボンドまで様々な時代のダンディたちを紹介しつつ、本書ではその定義を抽出しようとします。するのですが、これが難しい。ダンディズムとは常に、ある時代の主流に対するカウンターであり、相対的なものです。故に、それ以上のことは何も言えません。

 

つまり、この本を読んだからと言って、「これで今日からあなたもダンディ!」というわけにはいきません。彼らに共通の着こなしなど無く、あるのは反逆精神とそれを通貫できる意志の強さだけなのですから。

 

そもそも、ダンディは目指すべき絶対善ではないとも思います。基本的にはどこかいかがわしい。自己愛と虚栄心のために多額の借金を負いながら、仲違いしたジョージ4世の救いの手の払い退けたブランメルはついに懲役、その後は慈善病院で孤独な死を迎えました。それを英雄的な愚かしさと見るか、愚かしいほど英雄的と見るか、なのです。

 

けれども、私にはその愚かさが眩しく思えることがあります。生産性と実益が偏重され、経済価値のないものが許容されない社会に息が詰まるとき、何の役にも立たない自己満足の見栄っ張りに、夜空の極星の輝きをみることがあります。

 

タイパにコスパ、次は何にパが付きますか…?と怯えながら生きる我ら現代人は、真っ暗な海を”みんな”と同じ針路で進みます。安心だからです。ただ、そんな航海に嫌気がさしたら一度立ち止まり、ロマンティックなダンディの物語に癒されることも悪くないでしょう。彼らの尊大で優雅な輝きはいつの時代も不動で、望む者にオルタナティブな航路を示してくれます。